揺蕩う棺の中で

written by ゆに [2021/05/16]

「ちょっとぉ!なにぼーっとしちゃってんのよ、話聞いてた?」

 アスカに声をかけられて、意識が戻った。クラスメートの話す声がざわざわと耳に入ってくる。いろいろ考えすぎていたのか、今日はいつの間にか学校にいたみたいで、時計の針はもう12時45分を指していた。居眠りしていたならもうとっくに起こされているだろうし、机の上で寝てしまったとき特有のけだるさも感じない。どうやら、本当に今日は調子が悪いのかもしれないと思った。

「ごめんねアスカ。なんだか今日は調子が悪いみたいだ。」
「っふん!じゃあ家で寝てればいいじゃないのよ。それで?おベント、もってきたんでしょうね?」
「今渡すから、ちょっと待って。」

 相変わらずアスカの言葉にはとげがある。いちいちそんな突っかからなくてもいいじゃないかといつも思ってはいるけれど、本人に伝えるともっと辛辣な言葉が返ってくるのがよく予想できたから、いつものどまで出かける言葉を飲み込んでいる。
 やれやれ、と思いながら机の横にかけてある鞄を覗き込む。最近、足が歪んでいるのかがたがたと揺れる机に体重をかけて鞄の中をまさぐり、アスカと自分に用意した弁当を取り出して渡した。今日も彼女にリクエストされて、お気に入りのハンバーグが入っている。

「はい、こっちがアスカの分ね。言われた通りハンバーグ入れておいたから。」
「そ、ありがとね」

 そっけなくそういって、委員長のところへと彼女は歩いて行った。言葉では言ってくれないけれど、その横顔がうれしそうにしていて、がんばって作ってよかったな、と胸が暖かくなった。

「どないしたんやセンセ、ヨメハンにそんな見とれて」
「碇、式波に見惚れてないで早いとこ飯食おうぜ」

 アスカのほうを見てたら、トウジとケンスケがからかってきた。いつも反論するけれど、そんなに仲が良く見えるんだろうか。いい加減否定するのも疲れてきたけれど、否定しなければ、学校ではからかわれるし、家ではアスカになんて言われるかわかったもんじゃない。ため息をつきながらも否定しておくのも、段々慣れてきた。

「やめてよ二人とも。アスカとはそんなんじゃないっていつも言ってるだろ?後で怒鳴られるのは僕なんだからさ。」
「そんなこと言ったって、お前らを見てると誰だって付き合ってると思うさ。一緒に住んでるんだろ?しかもあのミサトさんまで一緒ときた。贅沢言いすぎなんじゃないか?」

 そんなこと、一緒に暮らしてないから言えるんだよ、とぼやきながら弁当に手を付ける。今朝自分で用意したものだから、見覚えがあって特に開けたときの驚きはないけれど、同じ教室でおいしそうに箸を動かしているアスカの姿も見えるし、ネルフでこれと同じ弁当を食べているミサトさんの姿を思うと、がんばってよかったな、と素直に思えた。


 アスカは特に用事がなかったみたいで先にマンションまで帰ったらしい。らしい、というのは、僕は日直もあったうえに、先生から資料を運ぶように言われてしまったから、アスカと話すことがなかったのだ。今、三人の家に向かう道はもう暗くなっており、西からの夕陽も弱くなっていた。途中で寄ったスーパーで、タイムセールによって安くなったたくさんのしなびた野菜を買い込んで鞄はとても重い。掌に食い込んでくるビニール袋の痛みも、つらくなってきた。調子に乗って買い込むんじゃなかったと、つい愚痴をこぼしてしまった。

「こんなに遅くなるなら、アスカにおつかい頼んでおけばよかったかなぁ。いや、もうどのみち怒鳴られるなら変わらないか。」

 ふと零してしまった愚痴を誰かに聞かれていないかと恥ずかしくなったけれど、時間も遅いし近くにいたのは野良猫ぐらいだった。やっとの思いで家につくと、なぜかキッチンのほうが騒がしい。ただいま、と声をかけながらリビングに入ると、レシピを見ながら鍋を菜箸でつつくアスカが目に入ってきて、果たして家庭科の調理実習は近かったのだろうかと考えを巡らせた。アスカにしてみれば不思議な顔をしてたみたいで、恥ずかしそうに顔を赤くしながらなぜかわからないけれど文句を言ってきた。

「帰ってくるのが早すぎるのよ、まだ晩御飯できてないんだから。変な顔してないでとっとと手ぇ洗ってきなさいよ。」
「えっと、うん、ごめんね?」
「ああもう!謝らないで!肉じゃが作ってみたから、早く準備して食べるわよ!」

 どうやら、珍しく自分で作ってくれたらしい。よく見るとキッチンの周りはお肉の包装を無理やりはがして転がしてあったり、ずいぶん身ごと剥かれたジャガイモの皮が散乱していた。慣れないなりにがんばってくれたんだと感じて、また少しうれしくなった。そんなことをしているうちに、ビールが好きな家主も帰ってきた。

「たっだいまぁ~!シンちゃん、ご飯できてる~?」
「今日はアスカが肉じゃが作ってくれたみたいなんでそれを食べますよ。」
「えぇ?!大丈夫それ?食べれるの?」
「あによ?!きちんとレシピ見ながらやったわよ!ミサトのカレーよりよっぽど食べれるモノになってるわよ!」
「もー、私のカレーのどこがまずいのよ?」
「まぁまぁ、ミサトさん。早く食べましょうよ、せっかくアスカが作ってくれた肉じゃががさめちゃいますって。」

 そんな会話をしながら、エヴァや使徒のことを忘れて、あぁなんて幸せなんだろう、と思った。



 意識が混濁している。目は覚めているけれど、まだ夢うつつな感じがする。まどろみながらいろいろ考えていたけれど、もう起きなきゃな、と現実を見ることにした。幸せだったけれど夢は夢だ。今は何時なんだろう?瞼を通して視覚を刺激する光の感じは、白みだした空のようだった。そろそろ起きてご飯の準備をするべきだろうか?今日の授業は何だっただろう。
 そこまで考えて、ぼんやりと違和感を覚えた。そういえば、アスカが来て、三人で使徒を倒して・・・。そのあと、僕はどうしたんだっけ?今は”いつ”なんだ?寝ぼけた頭では何も考えられないけれど、とても小さな、けれど考えさせるのには十分すぎる違和感が脳の中を支配していく。そんなことを考えていくうちに、今度はざわめきが耳に入ってきた。それまで考えていたことがすべてその音と、降って湧いたイメージによって押し流されていく。突然のことでびっくりしたけれど、どうせ寝ぼけてるから、という考えと、何よりどこか見知った感覚がそれ以上のパニックを止めていた。
 しかし、徐々に悪寒がして来る。それまで穏やかだったざわめきとイメージが、今度は塊となって押し寄せてきた。それでも、そのディティールははっきりとしなかった。悪夢から目を覚まそうとした瞬間、突然、眠気がまたやってきて思考が白く描き消えていく。何も感じられなくなってきて、寝坊によってお弁当を作り損ねたらアスカが怒るかな、と思いつつも、そのまま身をゆだねることにした。そしてまた眠りにつく瞬間、どこか懐かしい気配に包まれた事を感じ取った。

『綾波・・・?』

意識が、暗転する。


「ちょっとぉ!なにぼーっとしちゃってんのよ、話聞いてた?」

 アスカに声をかけられて、意識が戻った。クラスメートの話す声がざわざわと耳に入ってくる。いろいろ考えすぎていたのか、今日はいつの間にか学校にいたみたいだ。いや、ほんとにそうだろうか?ついさっきまで確かにベッドの上でまどろんでいたはずだ。そもそもちゃんとベッドの上にいたんだろうか。時間を確認しようとしたけれど、時計を見ようと教室の壁を見ると、そこに壁は存在しなかった。白い蜃気楼が張ったように、教室も、今座っているはずの椅子さえも存在を認識できない。体調が悪いのか、居眠りのし過ぎで目がしょぼくれているのかわからなかったので、両手で目をこすってみても様子は変わらない。驚きの余り呆然としていると、返事を返されなかったことで腹を立てたアスカがさらに追及してきた。

「まさかお弁当忘れてきたんじゃないでしょうね?言い訳なんて聞かないわよ。」
「・・・っいや、ごめん。ちゃんと作ってきたから今渡すよ。」
「まったく。体調悪いわけじゃないんだし、しっかりしなさいよね。」

 アスカに言われてお弁当を渡そうとすると、どこからともなく、現れたことすら知覚しないうちに手元に二つの弁当箱が出てきた。いやそもそも、今僕はなんて言った?僕は本当にお弁当を作ったのか?これは夢?それとも現実?徐々にわからなくなってきた。しかし、名前さえ怪しいようなクラスメートたちも、アスカも、綾波も、トウジもケンスケも、誰も空間の感覚がなくなったことにすら気づかず談笑していた。頭の中をはてなマークで埋め尽くしながら、アスカにお弁当を渡した。

「ほら、お弁当。食べ終わったらお弁当箱はちゃんと渡してね。」
「ハンバーグ入れてくれた?」
「うん、入ってるよ。」
「そう、ありがと。」

 一言お礼を言うと、次の瞬間には委員長のところで一緒にお弁当を食べていた。その横顔は、やっぱり変わらずに嬉しそうだった。でも、今の僕にはお弁当を作った記憶がない。いろいろ考えすぎて頭がくらくらしてきた。

「なんだぁ碇、そんな熱烈な目でヨメハンを見つめて。惚れなおしたか?」
「センセもメロメロやんなぁ。」
「いや、そんなんじゃないけどさ・・・」

 戸惑いが先に出てしまって、あまり否定する事も出来ず、でも、空間もかすみだした世界で、やっぱりアスカの横顔だけは輝いて見えて、本当に見とれてしまっていた。いつまでも見ていたかったけれど、気づいたらすべての感覚がなくなってしまった。そのあとに何をしていたのかまったく覚えていない。


「・・・っは!」

 学校からの帰り道で意識が戻る。帰り道と言っても、周りの景色はぼやけている。ぼんやりと空を見ると、まるで夕陽が差したように朱色に染まってはいるがよく見るとそれは空とは言えなかった。

「ここは・・・?」

 思わずつぶやいてしまうほど、移動した感覚がなくそのことに強い違和感を感じる。夕焼け色の空もどきの下、黒く塗りつぶされた世界でただ立ち尽くしている事しか僕にはできなかった。

「とにかく、帰らなくちゃ。アスカがきっと待ってる。」

 歩こうとすると、確かに移動している感覚はあって、足から返ってくる振動は確かに大地を感じるのに、道の表情も街路樹も、ガードレールすらないこの空間では歩くこと自体が強烈な違和感でしかなかった。気が狂いそうになるほど五感を襲ってくる。吐き気を催して嘔吐出来たほうがましだったかもしれない。今、僕にできるのは、一刻も早くこの空間からマンションへとたどり着くことだけだった。

「ただ、いま」
「んー、お帰り。ミサト夜勤があるから今は寝てるってさ。起こさないでね。」

 マンションまで付くとそこにはしっかりとした建物が建っていて、きちんと扉を開いて、いつも通りのわが家が待っていた。今日一日違和感を受け続けていたからか、そっけないはずのアスカの声に安心して、お風呂から上がったばかりであろう彼女に思わず抱き着いてしまった。いつも通り罵倒の言葉をいくつか浴びせてきた彼女だったけれど、それでも自分を抱きしめたまま泣き始めてしまった僕にそれ以上は何も言わなかった。そうしているうちに、胸の内から吐き気のようになにかが膨れ上がってきて、その衝動のままにぽつぽつとアスカに話しかけていた。

「ごめんね、ごめん。ぜんぶ僕のせいなんだ。ごめん。本当にごめんね・・・」
「気持ち悪くてごめん、でもどうしようもないんだ。」
「アスカの気持ちに気づけなくてごめん。」
「あの時、抱きしめてあげられなかったことも謝るから。」
「ただ、ただ怖かったんだ。怖くて、でもそのせいでアスカを傷つけちゃったんだ」

 理由もないまま、ずっと彼女に対して謝り続けていた。ただ泣きながら謝っていた。どうしてそうしているのかすら自分でもわからなかった。何を口走っているのかさえわからなかった。ただただ、謝り続けることしかできなくなっていた。自分勝手に泣きはらして、涙が落ち着いた時にようやく、何も言ってこない彼女の違和感に気づけた。

「アス、カ・・・?」

 恐る恐る顔を覗き込むと、一瞬のうちに、アスカの顔が目まぐるしく変わった気がした。包帯で作られた眼帯をつけているアスカ。無表情なアスカ。冷たい目をしたアスカ。優しく涙をたたえたアスカ。甘えた表情をするアスカ。そして、僕のすべてを拒絶するようなアスカ。ものすごく恐ろしい気がするのに、そんな彼女から目を離せなくて、でも僕の心は、耐えられなくなっていた。彼女から目をそらしちゃいけないとなぜだか強く思い、必死に意識を失うまいと耐えていたけれど、ついに視界が暗くなっていく。僕は最後に、ただ、アスカのことを思っていた。



 思考がはっきりとしない。たぶん、今は起きている。目を開けようとしてもあかないし、瞼の向こう側の光によって視界は白く染まっているけれど、今は起きている感覚がある。どうやっても体が動く感覚がまったくなかったので、朦朧とする意識の中ではあるけれど少しこれまでのことを考えてみることにした。僕は今どこにいて、今はいつなんだろう?
 かなり考え込んだ末に、自分の記憶に連続性がないことに気づいた。よく考えてみれば、昨日があった事は認識しているのは、あったことを全く思い出せないのだ。一年前も、一週間前の日も、一昨日も、そして今も、時間の連続を認めて、確かに生活していたはずなのに!何一つ覚えていない。はっきりと記憶しているのはここ数日だけだ。いや、そもそも学校にいることと、家でアスカやミサトさんを迎え入れたことしか覚えていない以上、一日きちんと生活していたのかさえ怪しい。

『わかんないよ・・・』

 しばらくして、まただんだんと意識が薄れそうになってきた。昨日(本当に昨日かはわからないが)と同じように、またきっと次に目覚めるときには学校なんだろうか。わけのわからない世界に恐怖した。
 そんなことはお構いなしに、白く、意識が飛んで行った。


『・・・碇くん』
「っ!」

 聞きなれたささやき声に呼ばれた気がして、目を覚ます。ほんの少し、この歪んだ世界から元に戻っているんじゃないかと期待したけれど、今度はただ真っ白な空間になっていた。不思議なことに違和感はまったく感じなくて、むしろここちよく安心できる感覚さえあった。しばらくの間ぼーっとしていたけれど、ふと気配を感じて後ろに振り返ってみる。そこには、蒼銀の髪をゆったりと靡かせる赤い瞳の少女が立っていた。

「・・・綾波?」
『碇くん・・・』

 声をかけると、悲しげな瞳を彼女は向けてきた。続けて、声をかける。

「ねぇ、綾波。ここはどこなの?あんまり覚えてないけど、なんだか変な場所なんだよ。」
『・・・』
「早く抜け出して、ミサトさんに報告しなくちゃ。ねぇ、そうでしょ?」
『・・・』
「・・・綾波?」
『・・・』
「綾波もわからないの?」

 どれだけ話しかけても悲しげな瞳を向けてくるだけの綾波に、だんだんと焦りが沸き起こってきた。なぜ焦ってしまうのかまったくわからなかった。この環境に危機感はないのに、焦燥感にかられそうになる。
 お互いが無言になってどれぐらいの時間がたったのか。よくわからなくなってきたところで、綾波がぽつぽつとしゃべり始めた。

『碇くん。もう、いいのよ。』
「もういいって・・・どういうこと?」
『大丈夫。何も心配はいらないから・・・まだ、眠っていて。』
「眠っててって、それってどういう・・・?!」

 そこまで話したところで、再び意識が朦朧としてくる。

「あや、な、み・・・」

 倒れた僕のそばに綾波が寄ってくる。気づけば、頭をなでられていた。

『もう、いいの。エヴァに乗って、つらい思いをしなくても』
『だから、』
『おやすみなさい』

 薄れていく意識の中では、綾波が何を言っているのかを理解することはできなかった。



 ふと目を覚ますと、何もない空間にぼんやりと浮かんでいた。周りを見渡したけれど、誰もいなかった。周りに何も判断するものがないから、ここ数日の経験からなんとなく学校なんじゃないかな、と予想を立ててみたはいいものの、結局のところ徐々に夢と現実の境界がなくなっている。そう考えていると、目の前の白い空間から、霧が晴れるようにしてアスカが姿を現してきた。予測はしていたけれど、実際に出てくるとやっぱり驚きは隠せない。

「何よ、お化けでも見たような顔しちゃって。しっつれいね!」
「アスカ・・・」

 アスカの態度はいつもと変わらなかったけれど、場所が場所だけに違和感が抜けない。不思議な顔をしてた僕を睨みつけながら、アスカは右手をずいっと突き出してきて、お弁当を催促してくる。それに反応するように、僕の両手にそれぞれ一つずつお弁当の包みがぶら下がっていた。

「体調悪いならさっさと早退するならしなさいよね。アンタが倒れたら誰も家事する人いなくなるんだからね。」
「・・・うん、ごめん。大丈夫だから。はいこれ、お弁当。」
「ありがとっ。ヒカリ!一緒に食べよ!」

 お弁当を受け取ったアスカが洞木さんを呼ぶ。遠くのほうにうっすらと洞木さんが表れて、アスカと一緒にお弁当を食べ始めた。昨日までだったら、ここでトウジやケンスケが出てくるかな、と思ったその時、両肩をたたかれる。

「なんやセンセ、やっぱり惣流のことが気になるんやろ?」
「トウジ?」
「まぁまぁ、あんまりからかうとかわいそうだぜ、トウジ。」
「ケンスケも・・・」

 二人の様子は相変わらずだった。でも、別に悪い気は全くしなかった。むしろ、そうしてほしかったとどこかで思ってるみたいだった。

家路すらなくなり、ミサトとアスカだけの3人の空間
 家に帰ることを意識した瞬間、隣にいたはずのトウジとケンスケはいなくなっていて、周りにはアスカとミサトさんしかいなかった。ミサトさんはいつものようにビールを飲みながらおつまみを食べている。アスカはテレビを見ているようで、こっちには背中を向けていた。手元にはシンクと汚れた食器があった。
 食器を洗いながら、さも楽しそうにエビチュを傾けるミサトさんを見ていると、顔を上げた彼女と目が合った。

「ん~?どしたのシンちゃん、そ~んな辛気臭い顔しちゃってさぁ。悩み事でもあるの?」
「っいや、そういうわけじゃないですよ」
「そう。それにしてもいっつも悪いわね~、家事全部任せっきりにしちゃって。」
「そんなこというぐらいなら自分の部屋ぐらいちゃんときれいにしておいてくださいね?」
「うぐっ・・・はぁ~い」

 そういっていそいそと空き缶を片付け、どこかへとミサトさんは消えていった。洗い終わった覚えもないけれどいつの間にか洗い物はすべてなくなっていて、気づけばテーブルに向かってうつむいているアスカと二人だけになっていた。さっきまで僕は制服で、彼女もタンクトップ一枚だったはずなのに、今は薄い朱色のシャツで、彼女は黄色のTシャツを身に着けていた。これまではっきりしなかった白い空間も、よく見知ったリビングと細部まで変わらない状態になっていた。自分とアスカの服装に、空間の変化に気が付いたとき、ぞっとした。今から、一秒でも時間が進めば、また何も取り戻せなくなってしまう気がしたからだ。もう、戻れない。僕は、どうすればいい?



 赤錆びた鉄のような地平線の向こうには、まばらに瞬く星と、すべてを吸い込んで決して逃がさない黒々とした闇が広がっている。どれほど無重力を感じていようと、ここはまだ地球の重力圏内。空気がなく音を通さない孤独な宇宙との境界線上。ほんの少し気を緩めれば、あるいはそうと望めば、命続く限り誰にも縛られることなく自由になることが出来そうな、そんなふらふらとしたあぶなさと隣り合わせになるようなこの場所に、これまで人類はその成果物を数多く放ってきた。既に失われて久しい地上の文明からの制御を失った衛星の海の中に今、まだ新しい生きた物体が浮いている。
 その物体の内部では、かすれてノイズの混ざった通信音声が断続的になっている。

『追跡班。僚機の現在位置を報告。』
『ポット2'、作戦高度に到達。予定軌道に乗った。』

 文明や、知的生命体などまるで途絶えたかのような世界に見えたが、確かにこの物体では知性が息づいていた。通信によって様々な情報が交換されていく。

『ポット8、軌道投入に問題発生。高度が足りない。』
『確認した・・・ジジッ・・・以後は2'単独でのオペレーションに切り替える。』
『了解。ポット8は直掩、シフトを7に移行。』
『ポット2’、・・・不帰投点を通過。エリア88に進入。』

 いくらか確認がなされたのちに、明瞭な音声で凛とした女性の声が届く。

『了解。これよりUS作戦を開始。』

 情報のやり取りはなおも続き、通信の受け手と送りてのそれぞれで作戦行動が始まる。物体の大部分を占める巨大なロケットエンジンが火を噴き、その力を発揮し始めた。本体の速度を緩めるだけ緩め切った後、不必要になった部分がパージされた。もう一度、同じことが行われ、必要なだけの減速が終了した。次の段階へ移行していく。
 本体の向きが大きく変わる。どうやら、全ての準備が整ったようだ。多少のイレギュラーが見られたらしいが、とにかく、一度走り出した以上このまま目標を目指すしかないのだろう。

『・・・了解、ポット2'、交差軌道への遷移スタート。これより作戦行動に移る。』
『現時点で全てのリモート誘導を切る。以後の制御はローカル。』
『グッドラック。』

 事務的な通信の最後には、物体に乗り込んだものへ向けての幸運を祈る言葉が添えられた。ここまで来てしまった以上、もう戻れない。せめてもの幸運を祈る、そんなつよいおもいをかんじられた。これまで注目してきた物体の中では、赤いシールドの付いたヘルメットをした少女が、目の前に表示される多くの情報に目を通しながら、しっかりとレバーを握っていた。

『目標との交差軌道に乗った。接触まであと8マイル。』

 その言葉が伝えられた直後、少女のモニターにも、ターゲットを確認した表示が現れた。赤字の六角形でポインティングされている。

「目標物を確認。」
『接触地点に変更なし。』
『シフトMを維持。問題なし。』
『2'はランデブー用意。8は高度不足のっため、再突入までの96秒間だけ援護可能。それまでに、ケリをつけて。』

 様々な情報が飛び交う中、少女は手元のコンソールに必要な情報や誤差修正を打ち込んでいく。何事もなく進んでいくかと思われたその時、警報が鳴り響いた。

『目標宙域に反射アリ!妨害が入った。』
『自動防衛システムの質量兵器だ。問題ない。』

 空中で、いくつかの爆発が起こる。薄い大気に乗った衝撃波と、破片の荒らしが徐々に迫ってきた。

『爆砕流発生。到達まで、3・2・1。』
「っう!うぅっ!」

 少女が苦悶の声を漏らす。だが、実際にぶつかったわけではなく、八角形の光のシールド、A.T.フィールドによって衝撃のほとんどは散らせてあった。

『続いて第2波、パターン青。厄介な連中だ・・・。』
『接近中の物体を識別。コード4Aと確認。』

 鋭いとげを1対もった高速で移動する物体が4機、こちらへと飛んでくる。心なしか、鋭い悲鳴のような音を立てているのが聞こえるようだった。直後、少女の乗る機体のA.T.フィールドに正面から一機、とりついてくる。回転しながらフィールドを食い破ろうとする。どうやら、単に物理的な力ではなく、特殊な力を働かせているようだった。

「アンチA.T.フィールド!」

 小さく少女が叫んだとき、ついにフィールドを破って進入してきた。

「ちっ!タチ悪い!」

すかさず放ってきた無数の弾丸を盾で受け止めた。盾を放り捨てながら少女もまたその大きなヘルメットを脱ぎ捨てる。

「えぇい、やっぱり邪魔!」

 しまわれていた美しく、赤く輝く長髪が、コクピットに広がった。



 よく見知ったリビングの机の上には、コーヒーカップが二つに、コーヒーメーカーが一つ。アスカは椅子に座って机に肘をつき、うつむいているから、表情はわからない。既視感を感じる光景に、恐怖と戸惑いで足がすくんでしまう。できることならこのまま逃げ出したかったが、どこにも逃げ場はないと頭の片隅で理解してしまっていた。かといって、逃げちゃだめだとも思わなかった。踏み出したくない一歩を僕は自然と踏み出していた。ゆっくりと歩いていく。

「アスカ、どうしたの?」

 うつむくアスカにそういって、隣に立って彼女の視線に合うように身をかがめる。ちょっと間をおいて、か細い声で彼女は話し始めた。

「・・・あんたが全部あたしのものにならないなら」
「・・・え?」
「あたし、何もいらない。そう、何もいらないの」

 そういわれて、アスカらしからぬその言葉に、何よりまるで聞いたことのない声色に戸惑って体をあげる。

「いつもそうだった。あたしが欲しかったものは全部なくなっていく。」

 語気を強めて彼女はなおも続ける。こんなアスカは、初めてだ。知らない、アスカだ。

「ママは死んじゃった。パパはママを見捨てた。」

 今このアスカを一人にしちゃいけない。そう感じて、徐々に感情が高ぶっていくアスカにもう一度目線を合わせる。

「アスカ、いったいどうしたってのさ?」
「パパは知らない。ママはやっぱり死んじゃった。加持さんも死んだ。」
「・・・アスカ?」
「でもあの時のあんたは私を助けてくれた。でも今度はまた見捨てたんでしょ。」

 彼女は話しながら身を起こし、椅子から立ち上がってこちらへ詰め寄ってくる。思わず後ずさる。

「・・・っは。ほら、またあたしから離れてく。そうやって、あたしから離れていく。あんたもあたしを捨てるんだ。」

 壁に沿って後ろへとずるずる後退する僕を見て、アスカは鋭い感情をぶつけてくる。何も言えずにいる僕にさらにいらだちが増して、ついに机をひっくり返した。

「なんであんたも、あたしを捨てるのよ!!!」

 机の上に乗っていたコーヒーメーカーがひっくり返って、宙に浮いたポットが僕の肩に当たる。右肩に痛みが走るが、それよりもアスカから目を離せなかった。

「あの時は助けるって、言ってくれたじゃないのぉ!」

 残った椅子を振り回して、棚の上に載っていたたくさんの酒瓶をなぎ倒す。飛んできた破片をよけようとして、足元に広がる液体に足を取られて尻もちをついてしまった。壁に背中を、床に尻をぶつけて痛みに顔をしかめていると、アスカが顔の横に右足を勢いよく突き付けた。

「なんどでもいうわよ。あんたが全部あたしのものにならないなら、あたし、何もいらない。」

 そこまで言うと、唐突にふらついて、僕の目の前にへたり込んだ。初めて見たアスカの姿と、突然の変わりように驚いて声をかけた。

「・・・あすか、落ち着いた?」

 特に返事はなかったが、しばらくしてぼそぼそとアスカは話し始めた。アスカの話す一言一言のほとんどが、記憶にはないけれど、どこか懐かしい、それでいて悲しい気分にさせられて、一言たりとも口をはさむ事が出来なくなってしまった。

「でも、ほんとのところは、結構あたしのせいだって今ならわかる。あたしだってあんたに理解してもらおうと思ってなかったし、あんたを理解しようとも思わなかった。」
「ねぇ、覚えてる?あんた、駅の向こう側でファーストと仲良さそうに話してたこと。」
「お互いのファーストキスだったのに、抱きしめてもくれなかったこと。」
「あたしを欲しがったのにあたしの首を絞めたこと。」
「あたしよりもファーストのためによく戦ってたこと。」
「抜け殻みたいになったあたしに、こんなアスカ見たくないって言ったこと。」

 そこまで話して、アスカは自嘲するようにクスリと笑った。

「ほんとはあんたなんか絶対に嫌だと思ってた。絶対に死んでも嫌だって。」
「でも違った。そう思ってたけど、本心は逆だった。あんたじゃなきゃダメだった。 」
「なのにあんたはいつもあたしから離れていく。そのたびにあたしは嫉妬して、いらだって、そうして余計にあんたは離れてった。」
「一番腹が立ったのは、あたしを見殺しにしたくせにファーストのために世界すら犠牲にして戦ったこと。」
「あんたがあたしを見殺しにする前に、あたしの気持ちを素直に伝えなかったこと。」
「本当にむかつくけどあんたとじゃなきゃだめ。何ももともと持っていなかった。手に入れた温もりは全部失った。これ以上、あんたすら失うのはいや。」

 そういって顔を上げたアスカの顔は、ぞっとするほど美しかった。距離を詰めてくるアスカを、じっと待った。

「絶対、絶対に逃がさない。」

 アスカの手がまっすぐ伸びて来て、僕の首を締め上げ、体を持ち上げた。あの細い体のどこにそんな力があるのか、足は宙に浮いていた。苦しみもがく僕に、ニタニタと笑いながら彼女が話しかけてくる。

「ほら、ねぇ、苦しいでしょう?あんたもこうやってあたしの首を絞めたのよ。」
「なんども、なんども、なんども!」

 じたばたともがくうちに、首の締め付けが緩みどさっとその場に落ちた。供給の途絶えていた空気を大きく吸い込む。そんな僕を見下すわけでもなく、アスカは憎しみのこもった目で僕の後ろを見つめていた。

「ふーん。そうやってまたあたしから離そうとするの。あんたもずいぶん変わったわね。」

 その時、強烈な眠気が襲ってきた。薄れていく意識の中で、アスカの言葉に耳を傾け続けた。

「シンジ」
「これだけは覚えていきなさい」
「あんたが全部あたしのものにならないなら、あたし、なにもいらない。」
「あたしのものにならないなら、あんたもいらない。」
「あたし自身すらもいらない。どうだっていいの。だから、だから。」

 そこまで聞いて、ついに意識の糸が切れた。最後の言葉を聞き切ることは、できなかった。

「だから、     」



 何物にも染まらない真っ白な空間。広いとは感じないが、狭いとも感じない。それでいて境界線や壁はどこにも見当たらない。その中心に、綾波レイは座っている。その膝の上には、意識のない少年が横たわっている。レイは慈愛のまなざしで少年を見つめ、その髪を優しく撫でつけていた。

『碇くんがもう、苦しまなくていいようにする。』
『だから、眠らせるの。』
『私がこうしていれば、誰も碇くんを傷つけることはできない。』
『安らぎの中で幸せな夢を見ていればいいの。』

 ぽつり、ぽつりと膝上の少年に声をかけ続ける。夢を見る少年が目覚めそうになるたびに眠らせ、落ち着け、こうやってずっと彼女は少年を守り続けていた。
 しばらくそうしていると、少年の顔が歪み、苦しみ始める。その様子を見て、なにかをにらむかのような目をしながら、強い力で少年を胸に抱く。

『そんな苦しい思いは、もうしなくていいの。あなたには絶対に渡さない。』

 優しい手つきで、髪をなでていく。

『もうなにも思い出さなくていいの。ここにいれば、幸せなままでいられる。』

 徐々に顔のゆがみが取れてゆくのを見て、幸せそうに微笑む。

『もう誰にも、碇くんは渡さない・・・』

 数えきれないほどの年月に続いた静寂が今日もまた続いていくのだと、彼女が薄く微笑んだ時、微妙な振動が彼らを揺らした。かすかな、けれどこれまでに一度も発生しなかった異常に、はじかれたように顔をあげた。

『なにっ?』

 不規則に続く振動は、気のせいではなく確実に二人のもとへと届いている。その振動に怯え、少女は少年の体をきつく抱きしめ、守るように覆いかぶさる。

『だめ。碇くんを苦しめないで。眠らせてあげて。』
『もう、放っておいて・・・!』



 気づくと、とうとう地面の感覚すらない空間にいた。もう何度もこの場所に来ているような、でもまったく知らない未知の場所のような、不思議な既視感。意識はしっかりと覚醒している。

「ここは・・・?」
『僕が、僕たちが何度も繰り返した自由の世界。』
「そうだ、思い出せないけど、憶えてる。」

 頭の中に、僕じゃない、でも僕自身の声が穏やかに響く。その声はミサトさんの声のようにも、父さんの声のようにも、綾波の声のようにも、僕の声のようにも聞こえた。そのまま、対話、あるいは自問自答を続ける。

『もう数えきれないぐらい、この自由の世界から僕は不自由の世界を作り出した。』
「うん、そうだったと思う。」

 そう言ったとき、唐突に足元に重力を感じた。もう空を飛ぶことはできない。でも、悪くない。

『でも、結局これは僕の中の世界。全てであるともいえるし、ほんの一部でしかない。』
「そうだった。・・・そういえば、いつだって始まりには必ず綾波がいた。」
『そうだね。彼女は君にとって妹のようであり、娘のようであり、母親のようである。』
「そうかもしれない。不思議な、でも放っておけない存在だった。」
『だから、助けたんだろう』
「たすけた?」

 そのとき、さっきのアスカのように、綾波レイが現れた。制服姿の綾波。傷だらけでプラグスーツを着た綾波。裸の綾波。包帯を巻いた制服の綾波。背中に翼をはやしてうつろな目でこちらを見つめる綾波。そして、僕のS-DATを握っている綾波。
 断片的に記憶が戻ってくる。弐号機も、勝てなかった。零号機は、使徒に喰われた。そうだ、綾波を助けようとして僕は、僕は・・・。

『大丈夫かい?もうちょっと待ってあげたいんだけど、実はもう時間がないんだ。さあ、次を思い出そう。』
「・・・うん。だんだん思い出してきた。少し、落ち着いたよ。」
「そうだ、この世界から一歩外に出るときは、必ずアスカがいた。」
『うん。そして、僕が憶えていない外の世界にも、最後は必ず彼女がいた。』

 目の前にアスカが現れる。出会ったときのワンピース姿で、生気に満ち満ちたアスカ。いつも通りのプラグスーツを着たアスカ。制服を着たアスカ。タンクトップのアスカ。少しおめかしをしたアスカ。慣れない料理で手がばんそうこうだらけのアスカ。やせ細ったアスカ。傷だらけの体を包帯でおさえているアスカ。そう、気づけばいつも彼女が隣にいた。でも、さっきみたいに取り乱す彼女は初めて見た。
 僕はいったい、彼女とどうやって過ごしてきた?そう、出会ったのは海辺だった。憶えていない過去の彼方でも、きっと海だった。一緒に使徒を受け止めて、押しかけてきた彼女と一緒に暮らして・・・。あぁ、そうだ。そうだった。3号機にのった、彼女と戦って。

「そうだ、僕は、アスカを、」
『見殺しにした。そうだろう?長いこと続いた僕と彼女の絆の中で、最後の引き金を引いたのはキミだ。』
「ぼくの、せい?」

 僕のせいなのか?そうだ、僕は彼女と戦うことを拒否したんだ。父さんがダミープラグを使って、アスカを乗せたエントリープラグを、

『噛み砕いてしまった。いくたびも繰り返した”碇シンジ”と”アスカ・ラングレー”の物語で、初めての事だったよ。』
『いつだって彼女は、あきらめの中でささやかな幸せを最後には手に入れていた。』
『もちろん、今度の物語だって終わってはいないさ。』
『でもね、こんなにも彼女の心を痛めつけてしまったのは、確かに君なんだ。』
「・・・」

 たくさん目の前に現れたアスカたちの表情は、目まぐるしく変わる。優しげな顔。冷たい顔。どんな顔でも見ていたかったのに、それを捨ててしまったのは僕だ。
 そう、いつだったか、彼女とキスしたことがあった気がする。彼女に鼻をつままれて、息ができなかったけれど、それ以上に嫌われるのが怖くて、ただ、されるがままになっていた。本当はあの時、抱きしめたかった。
 料理なんてしたことない彼女が、手にたくさん傷を作っていたこともあった。かなうなら、彼女の作った料理をたべたかったな。
 綾波も一緒に、三人で使徒を倒した夜。背中合わせで一緒に寝た日、すごい安心したんだ。そう、ずっとあのまま、穏やかに日々を過ごしていたかった。
 そうやって最後に変化を止めたアスカは、制服姿で満面の笑みを浮かべていた。
 ・・・そうか、僕は、彼女が、好きだったんだ。でも、もう彼女には会えない。
 僕が、その未来を捨ててしまったから。
 このまま、ずっとアスカとの穏やかな夢を見ているだけでいい。僕が捨ててしまった現実を見たくない。

『でもね、さっきも言っただろう?』
「・・・え?」
『まだ終わってはいないのさ。』

 その言葉に唐突に我に返った僕に、一言も挟ませる様子もなく、頭に響く声は続けた。

『ここは僕の深層心理。僕はキミでありキミだった者の集合体である。ここでの記憶は外には持ち出せないことになってる。それが、僕らじゃない誰かが決めた絶対のルール。とはいえ、たいした縛りじゃない。』
『この世界にいる間、僕は外の世界では眠ってるんだ。そう、ずーっとね。』
『後は君次第だよ。君が、起きようと。もう一度生きようと思えば、これからどこでだって生きていける。』
『そう、君は彼女とまだやり直せるんだ。君がそう望めばね。』



「コネメガネ!援護!」

 左目に眼帯を付けた少女は、同僚に援護をするように伝えると、さらに一機を受け流し、もう一機を受け止めた。瞬間、援護射撃によって爆散する。

「援護射撃、2秒遅い!」
『そっちの位置、3秒早い。』

 少女が咎めるのに対し、同僚も文句で返してきた。

「臨機応変!合わせなさいよ!」
「仰せの通りに、お・ひ・め・さ・マッ!」

 ピンク色のプラグスーツを着た同僚の少女は、2発、3発と援護射撃を的確に入れていく。爆発をよけながら、アスカは目標に対してまっすぐに進んでいく。

「フラウリーシフトを抜けた!最終防衛エリア89を突破!」

 どうやら目標に対する防御機構を抜けたらしい。が、アスカは異変に気が付いた。

「目標物が移動してる!」

 十字の棺のような”目標物”が、ゆっくりと回転しながら徐々に地球へと降下していく。少女の声に若干の焦りが見えた。銃のようなものを手に取ると、通信に向かって叫んだ。

「軌道修正が追いつかない、このまま強行する!」

 ワイヤーの付いた弾丸が4つ射出され、目標にとりつく。機体の手元で、ワイヤーが巻き取られ始め、アスカの改2号機と棺の間の距離が縮み始めた。ややあって、赤い巨人がしっかりと棺に到着した。すかさず、背中にしょった巨大なロケットブースターが起動された。

「減速!」
「8・7・6・5・4・3・2・1、燃焼終了!」

 ある程度勢いを殺したのち、ブースターはその役目を終えて切り離された。通信からはまた、無機質な事務連絡が届き始めた。

『2'、最終ブースターをジェットソン。再突入保安距離を確保。』

 それを聞いて、荒く肩で息をしながらアスカは返答した。

「・・・ハァ、ハァ、ン・・・。強奪成功、帰投するわ・・・。」
『了解、回収地点にて待つ。合流コードはサターン5。』
「了解。」

 ほっと息をついた、その瞬間、改2号機内で警報が鳴り響く。モニターには、パターン青を示す表示が出ていた。

「パターン青!?どこにいるの!?」

 焦った様子で左右を見渡す。棺の一か所が展開され、中から帯状の鏡と一体の何かが見えた。

『当該物はコード4B、フィールド反射膜を展開中。』
「チッ!しゃらくさい!再突入直前だっちゅうの!」

 展開されていく敵に最新の注意を払いつつ文句を言っていたアスカだったが、いつまでたってもやってこない同僚の援護射撃に業を煮やして催促する。

「コネメガネ!援護!」
『めんご!高度不足でお先に!あとはセル・・サービスd・・・よろぴくぅ~・・・』

 先ほどのトラブルがこんなところでつけが回ってくるとは想像もしていなかったが、事実、再突入に向けて降下を始めた同僚からの通信は途切れていた。

「チッ、役立たず。」
「もう、しつこい!こんなの聞いてないわよ!!」

 先に離脱した同僚に対する恨み言から、さっさと目の前の脅威に対する文句へと怒りの対象はシフトしていく。棺から振り落とされない程度に改2号機の足でけりつけた。しかし、敵もいつまでたっても待ってはくれない。展開が終了したのか、唐突に帯は光をはなち、集約したエネルギーを改2号機に放ってくる。A.T.フィールドすら貫通して、直接改2号機とアスカにダメージを浴びせてきた。

「うわっ!なにこの光!A.T.フィールドが中和してない!」
「コアブロックをやらないと!」

 そういって中央に坐したコアブロックを狙おうと思った瞬間には、帯に乗ってそれはするりと手の届かないところへ移動していく。

「逃げんなコラ!」

 悪いことは続いていく。警報が再びなり始め、予定が大きく狂い危険が迫っていることを伝えてくる。温度が上昇し赤い泡を立て始めたLCL越しに、モニター表示を確認する。

「やっばい!降下角度が維持できない!このままじゃ機体が分解する!」

 しかし、通信から返ってきたのは冷たい言葉だった。

『2'、作戦遂行を最優先。機体を捨てても、目標物を離さないで!』
「わかってるっちゅうの!」

 光がさらに勢いを増して、改2号機の腕を焼いてくる。それだけでなく、さらに帯の光が増し、改2号機を振り落とそうといくつもの爆発を起こしてきた。ついに片腕で棺にぶら下がり、痛みもピークに達した少女が、叫んだ。

「ううううぅ!!」
「          !      !!!」



 もう一度、やり直せる。本当だろうか。目の前にいる、少女に目をやる。
 そう、彼女は僕の記憶から再構成された、僕の中のアスカ。プライドが高く、傲慢で、でも思いやりをもって人に接し、明るく、美しい少女。深い絆で、つながった人。
 種がわかってしまったからか、もうこのアスカはただ僕の前で優し気に微笑みながら僕を見つめるだけだ。そう、こうやって微笑んでほしかった。いや、それ以上に、彼女をもっと知りたかった。

『そうそう、僕らは綾波にお礼を言わなきゃいけないよ。』
「綾波に?」
『そう。なにせ、14年の間ずーっと夢を見続ける僕たちを、ずっと守り続けてくれたからね。』
「・・・そんなに、僕は眠っていたのか。」
『君は同じ日々を何度も繰り返し続けては目覚め、苦しみに耐えきれずにまた眠り、夢を見続けた。彼女はけなげに、守ってくれたんだ。あの子の気持ちも、受け取ってやらなきゃいけない。』
「そう、だね。」


 その時、振動とともに空間が歪み、開かれ始める。もう何が来ても驚きはしない。落ち着いて後ろを振り返ると、プラグスーツを着た綾波が、こちらを見ていた。

『碇くん。ごめんなさい、起こしてしまって。』
「いいんだ、綾波。ありがとう、ずっと僕を守ってくれて。」

 そういって、綾波を抱きしめる。身を震わせて、彼女は泣き始めてしまった。

『もういいのに。碇くんがもう、エヴァに乗らなくていいようにする。苦しむ必要なんて、もうないのよ。』
「うん。ありがとう。でもね、僕はあの子に、謝らなきゃいけない。あの子と、もう一度会いたいんだ。」
『・・・2号機パイロットね。』
「うん。僕が断ち切ってしまった絆を、取り戻したい。」
『もう、止められないのね・・・』

 涙を流す彼女をより一層ぎゅっと抱きしめる。感謝の念を込めて。

「さっきさ。アスカが僕に言ったんだ。」
「僕がいらないなら、何もいらないって。だから、戻ってきてッて。きっと、そういってたと思う。」
「綾波も、きっとそういう思いで僕を見守ってくれてたんだろ?」

 彼女は何も答えなかったが、小さく胸の中でうなずいていた。

「だから、僕はいかなきゃいけない。いや、ちがうや。どうしても、行きたいんだ。」
「やっぱりアスカが好きみたいだ」
「あの時助けられなかった事を、後悔し続けて殻にこもっているのは楽だけれど、今僕は外の世界で、しっかりアスカに向き合いたい。僕と彼女の間にある、絆を終わりにしたくない。」
「ここにいれば幸せかもしれない、外に出れば苦しいかも知れない。それでもいいんだ。」

 綾波が体を離す。あの透き通った赤い瞳で、まっすぐにこちらを見つめてきた。

『もうじき、迎えが来るわ。あなたを外の世界へ引きずり出そうとする人が来る。』

 そういって、彼女はどこからか、S-DATを取り出して差し出してきた。僕と一緒に、14年間持ち続けていたのか。

『これを、返しておくわね。』
「・・・ありがとう。」
『その代わりに、あなたの心を、わたしに分けて。わたしはあなたと、もう一度会いたいから。』
「僕の心?」
『そう。心。あなたと私の絆を、預けてほしい。』
「でも、心なんてわたせない。渡し方がわからないよ。」
『ううん。もう、もらった。あなたが渡そうとしてくれたから。これさえあれば、ずっとひとりでも、平気。』

 そういって、綾波は僕から離れていった。彼女の色が、薄くなっていく。

『碇くんは、 2号機パイロットをずっと求めていた。』
『ここで私がしてあげられたのはあの人との幸せな夢を見させることだけだった。』
『でも、もういいの。碇くんがもう一度現実と向き合うのなら、私はまた私にできることをするだけ。』
『碇くん』
『私は、ここで溶けこんで、この初号機の全てとなって』
『待ってる。あなたとまた会えるのを。』



 綾波を見送った後、目覚めの時を待つ。しかし、いつまでたっても何も変わらなかった。いや、空間を揺らす振動が大きくなっている?ふと、振り返ると、アスカの周りに黒々とした靄が突然現れ、彼女の体を傷つけ始めた。自然と体が動いていく。

「やめろ!」

 アスカをかばって、その靄を振り払う。一時的に振り払うことに成功し、安堵したが、次の瞬間、その靄はより一層その色を濃くしてアスカに襲い掛かった。

「くそっ!やめろったら!!!」

 努力もむなしく、アスカはその靄へ蝕まれていく。もう絶対に、この子を失いたくないのに!
 その時、動かなくなっていたアスカが、唐突にものすごい力でこちらに抱きすがってきて、叫ぶ。

『なんとかしなさいよぉ!バカシンジぃ!!!』

 その言葉に呼応するようにして、体に力がみなぎってくる。

「うおおおおおおおおお!!!」

 瞬間、体中から光があふれて、靄が晴れていく。どっと疲れが体を襲ってきて、もう何度目か、意識が薄れていった。


 シンジがアスカの叫びに呼応したその時、封印の外では、棺の一部が裂けて、強烈なレーザー光を放った。それのレーザーは、アスカを囲うように展開していた帯を、改2号機を避けるようにして焼き切り、逃げ惑うコアブロックをとらえ、撃破した。
 最初、何が起こったのかアスカにはまったくわからなかったが、驚きとともに、自分が呼んだ少年が、棺の中から、その封印を打ち破って呼びかけに答え、自らを救ってくれたのだという事実を、ただかみしめていた。白い炎に包まれ、改2号機と棺は流れ星となって地上へと帰還した。



 海辺に座っていた僕を、マリさんが八号機で迎えに来てくれた。きっとそこで、世界が終わったんだろう、海に飛び込んでこちらに振り返ったマリさんを見た直後、意識が飛んでいた。気づけば、また真っ白な空間で一人浮かんでいた。しばらくして、またあの声が響いてきた。

『お帰り。今回は随分苦労したね。』
「・・・そうか、戻ってきたんだね。」
『うん。でも、きっとこれが最後だ。僕はもう、繰り返す円環にも見える物語を断ち切って、一度しか来ないかけがえのない未来を勝ち取ったんだ。』
『じきに、迎えが来るよ。それまで、少し聞かせてくれないかな。君がこの最後の戦いで、何を知り、何を得て、何を失い。そして、この人生で何を感じたのかを。』


「そうだなぁ。君も見てたと思うけれど、あの戦いまでに僕は、いろんな人に助けられたよ。」
「最後に、しっかりとみんなにそれぞれ向き合うことができたと思う。」
『でも、アスカへのあれは、ちょっとひどかったんじゃないかな?』
「・・・うん、そうかもしれない。でも、あの時のアスカにとって、居場所は確かにケンスケだった。心苦しいけれど、僕が眠っていた14年間、支えていたのはケンスケだったんだよ。」
『嫉妬してないのかい?僕は正直、嫉妬を覚えたよ。』
「もちろん、した。でもね。」
『いつかは巡り巡って彼女と会える時が来るって?』
「うん。」
『・・・そうだね。分岐したそれぞれの世界で、それぞれの僕が、きっと彼女とまた出会えるよ。』

 優しい声でそう聞こえた後、目の前に”僕”が現れた。僕は僕と目を合わせて、手をつなぎ、僕と、混ざりあった。ようやくすべての僕を理解できた。僕を僕として受け入れることができたと思った。
 ・・・いや、違う。なにかが残ってる。さっき混ざり合おうとした僕のかけらが、わずかに残っている。何とも言えない形をしたそれは、ヒト型だったり、まるだったり、四角だったり、幾度も形を変え、徐々に形を整えていく。そうして残ったのは、マリさんだった。


「やぁ、シンジくん!」

 どうやら、最後に僕が飲み込めない、僕の中の人は、マリさんのようだった。あるいは、今、ゆっくり対話がしたいのは彼女なのかもしれない。

「ようこそ、僕の世界へ。次の世界が始まるまで、ほんの少しの間ゆっくりしていってください。」
「どうもん♪」

 僕は、失ってしまってもう戻れない、それでも、確かなよりどころだった懐かしの我が家を構成して、リビングにマリさんを通す。あの日ひっくり返してしまったコーヒーメーカーを、今度はひっくり返さないようにして、コーヒーを淹れた。

「ありがと、んー!おいしいね、このコーヒー!誰に教わったの?」
「ミサトさんですよ。あの人、料理音痴ですけど、コーヒーだけはおいしいんです。」
「そっか。いつか、飲んでみたかったにゃあ・・・。」

 しんみりとした空気が流れたが、マリさんがその空気を破ってこちらに聞いてきた。

「そういえばわんこ君さ。」
「はい、なんでしょう?」
「姫とは、あれでよかったのかい?」

 マリさんにそう聞かれたってことは、僕自身、やっぱり納得が言っていない部分があるのかもしれない。

「納得してるとは、言えません。でも、きっとあれでよかったんですよ。」
「そっか。君はよくやってるよ、碇シンジくん。」

 そういいつつも、いたずら顔でこちらに顔を寄せてくる。コーヒーの香りの中に、かすかに混じる柑橘系の甘い香りがした。

「じゃあさ、もし君が次の世界でもう一度姫と会えたなら、今度はどうしたいかにゃあ?」

 その質問に少し心が揺れたが、もうすでに答えは出てる。そもそも、彼女だって僕の一部だ。自問自答するとき、僕の中にはすでに答えは出ている。あとは、自分でその答えを受け入れてあげればいいだけだ。

「ほら、マリさん。これを見てくださいよ。」

 僕は自分の胸の一部を取り出して、一つの塊を大事に見せる。まるで自分の心臓のように、穏やかに、温かく、とくとくと脈打っている。

「これは、僕とアスカの絆です。もう、どうやったって僕らの絆は断ち切れない。というより、僕はこの絆の証を絶対に捨てたくないんです。」

 そこまで言って、もう一度その絆を自分の体へ溶かしこむ。よくなじむ、何度捨てようとしても捨てられなかった、捨てさせてくれなかったこれを、僕はきっと、いつまでも大事にしていくのだろう。

「それにね、マリさん。もしも。もしも、願いが一つかなうのなら、僕は彼女と一緒にいたい。」
「今度はきちんと、彼女と向き合いって、ちゃんと好きだと伝えたいんです。」

 そういって目線を上げ、目の前に座る人の眼を見つめる。彼女は、驚いたように目を見開いた後、優しく微笑んだ。

「・・・へぇ、意外だなぁ。」
「そうですか?」
「そうとも。今までの君だったら、姫が幸せならかかわる必要なんてないって言ってたと思うよ。」
「そうですね。確かにそうかもしれない。でも、今は伝えたい。少しだけ、わがままになっちゃったのかな。」
「いいや、立派な成長だよ。君はもう、前を見て進むことができるようになったんだね。」

 そこまで言うと、ふわり、とマリさんが浮き上がったかと思えば、その形が溶けだして僕に混ざってくる。

『君の様子を見て安心したよ。じゃあ、先に行って待ってるねん♪』

 そうして、僕の世界にいた全ての人が、僕の中でそれぞれの位置に正しく溶け込んだ。じきに新しい世界が始まる。
 思えば、つらい思いもたくさんした。そんな時僕の隣には、たくさんの人がいてくれたんだ。そう、一番はきっと彼女だ。彼女を傷つけ続けてきた、彼女に支えられて生きてきた。
 13号機から降りて、赤い大地を連れて歩いてくれた。見捨てたってよかったのに。
 ケンスケの部屋の隅でうずくまることしかできなかった僕を、立ち上がらせてくれた。でも、やり方はずいぶん乱暴だったなぁ。あの時だって、見殺しにしたってよかったのに。
 決して、包み込むだけの生ぬるい愛情じゃあなかった。それでも、僕のそばにいてくれた。いま、彼女に追いついたのかはわからないけれど、新しい世界では、少しだけ大人になった僕で、彼女に正面から向き合いたい。
 もう一度、アスカと出会えたら。いや、出会うんだ。それから、ちゃんと、過去形なんかでごまかさずに、幾たびも繰り返してきた、積み重ねてきた想いを、言葉にして伝えよう。


 さぁ
 行こう

終劇